せん日記帖

狭く浅い知識を持つせんが戦国武将ゆかりの地へ行ったり絵を描いたり妄想したりするブログです。

【姫路城支城シリーズ】龍野 登山はつらいよ

1600年、関ヶ原の戦いの戦功により池田輝政が播磨一国52万石を与えられ播磨に入封し現在の姫路城が築城されました。
池田輝政は広大な播磨を統治するにあたり主要拠点三木 赤穂 龍野 平福(利神城) 明石(船上城) 高砂に支城を構えました。

今回は龍野城を紹介したいと思います。

龍野城下の町並み

 (DSで撮ったの画質悪くてすみません)

龍野城下には江戸時代から昭和前期までに建てられた建物が残されており白壁や町家造りの建物が多く残る町並みで「播磨の小京都」とも呼ばれています。
私はこの町並みが好きで龍野の近くを通る時は立ち寄ってこの町並みを見たりします。
ヒガシマルさんのうすくち龍野醤油資料館があるので是非寄ってみてください。入場料なんと10円。もうちょっと取ってもいいのでは…?

龍野城

龍野城下から坂道を上がって

埋門

門をくぐって裏側です。

御殿

二重隅櫓

個人的にここの風景が一番好きです。すぐ横が民家なのでなんか日常風景に溶け込んでて良いなと思います。

龍野城の建物は明治4年(1871)の廃藩置県によって全て競売にかけられ取り壊されたそうですが昭和50年から5年間で城壁、多門櫓、埋門、石垣、本丸御殿、鍛坂門が再建され後に隅櫓が建築されたそうです。
現在残る絵図を参考に木造、土壁で建てられていますが「忠実な再現ではない」とたつの市観光協会のサイトに書いてあるけどかなり立派で雰囲気のあるお城です。静かで落ち着く…。

歴代城主の事など

龍野城のパンフレットを参考に書きます。
龍野城は中世に赤松広秀によって築かれたと伝わり当時は標高200メートル余りの鶏籠山の山頂に築かれていたとか。

これがその山頂の城趾の入口なのですが結構急だという情報を得たので登城断念。昔は多少きつくても登ったんですが子供連れてるのと歳で最近は全然です。

龍野赤松氏は4代続きますが天正5年(1577)秀吉の軍に戦わずして城を明け渡します。その後蜂須賀、福島など豊臣配下の大名が在城します。
なんと当ブログの推し武将福島正則天正13年(1585)から天正15年(1587)まで在城したとのこと。まじか。
438年前くらいに福島正則も同じ空気を吸ったのかと思い深呼吸しておきました。スーハースーハー。

そしてこの後がこの記事の本題。
龍野市史を参考に書きますが
徳川の時代になると播磨一国は池田氏の領地になり龍野には城代が置かれます。
最初に入城したのは荒尾但馬守成房さん。
池田輝政の母方の叔父さんに当たる人です。
慶長5年(1600)から慶長18年(1613)まで在城したようです。

次に入城したのが池田長明さん。
池田輝政の末弟池田長政の子です。池田長政は最初6つの支城のうちの赤穂の城代だったんですが途中備前下津井の城代に変わりました。慶長12年(1607)に長政が亡くなって長明は下津井から平福に移ったのですが年がまだ2歳だったので母親の実家伊予松山の加藤家で養育されました。(池田長政の奥さんは加藤嘉明の娘)
【姫路城支城シリーズ】利神城だよ!池田家全員集合!! - せん日記帖
↑利神城の案内板では池田長政が城代って書いてあるけどおそらく池田長明の間違いかと思われます。
そして慶長18年(1613)松山から帰って8歳で龍野に入ったとか。長明は元和2年(1616)まで在城しました。

残念ながら池田時代の遺構っぽいものは私が見つけられなかったからかもしれませんが見当たりませんでした…残念。


そして池田氏が姫路を去った後本多、小笠原、岡部、京極と城主は移り変わり万治元年(1658)京極氏が丸亀へ移った後一時幕府領となり代官によって支配されました。その際城、侍屋敷等は壊されて寛文12年(1672)に脇坂安政が信州飯田より入部した時には「城郭の地ことごとく土人の田畑となるありさま」で安政自身も城下の商家を居館として一年余りで城を再建したそうです。wikipediaによるとこの際山頂の郭は放棄され山麓居館部のみの陣屋形式の城郭になったとか。それ以降脇坂氏は明治まで10代200年間龍野を治めました。

ということで龍野には脇坂氏初代の脇坂安治を祀る龍野神社があります。

またしてもDS撮影で画質悪くてすみません

一番最初に龍野を訪れたのは2011年くらいだったのですが脇坂安治目当てでした。龍野城の敷地内にある龍野歴史文化資料館で脇坂安治賤ヶ岳の戦いで使った槍を見ました。

最近発見された加藤清正池田輝政の母を気遣う手紙

そんな龍野歴史文化資料館なんですが最近たつの市の民家から加藤清正池田輝政の母の病状を気遣う手紙が発見され企画展で展示されたので見てきました!!

手紙の宛先は輝政の末弟池田長政(「池吉左様」と書いてあります。通称が橘左衛門(きちざえもん)だったので橘を吉に当ててるとか)で内容は勉強不足で、詳しくはわからないので朝日新聞デジタルの記事を参考に書きますが

三左衛門殿(池田輝政)が急に国元に帰る事になったのでご心配の事でしょう。お母様の容体が悪くなったとのことで使者を遣わせて見舞いの書状を申し入れます。暑い時期なので油断なく養生することが大事です

とだいたいこういうことが書いてありました。

年代は書いていませんが差出人(そう言うのかわかりませんが)が加肥後守清正となっていて清正が肥後守を名乗ったのは慶長8年(1603)3月頃。輝政の母親が亡くなったのは慶長9年(1604)6月29日とされているので慶長8年か9年頃に書かれた事になります。
日付は6月29日と書いてありこの手紙が慶長9年に書かれたものだとするとまさに輝政の母親が亡くなった当日の手紙ということになるようです。
花押は清正の自筆とみられるとか。

加藤清正の池田家宛の書状はほとんどなかったので日常的に繋がりがあったことがわかり清正と輝政が親しくしていた事を表す新資料ということでいてもたってもいられず3時間かけて龍野歴史文化資料館に行ったわけです。
武将同士のプライベートな手紙とか良いですよね…!!
もっと戦国武将の交友関係とか知りたい…!!
見ても何が書いてあるかは全然わからないんですが…。勉強してわかるようになったらもっと楽しいでしょうね!!

まとめ

ということで姫路城の支城としての龍野城の記事なのに池田家の遺構は見つけられなかったという残念な事になってしまったのですが龍野城龍野城下は静かな雰囲気で本当に良いところなのでおすすめです。

加藤清正の書状も見れて本当に良かったです。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村