せん日記帖

狭く浅い知識を持つせんが戦国武将ゆかりの地へ行ったり絵を描いたり妄想したりするブログです。

【姫路城支城シリーズ】明石 出羽殿堤で会いましょう

1600年、関ヶ原の戦いの戦功により池田輝政が播磨一国52万石を与えられ播磨に入封し現在の姫路城が築城されました。
池田輝政は広大な播磨を統治するにあたり主要拠点三木 赤穂 龍野 平福(利神城) 明石(船上城) 高砂に支城を構えました。


今回はその内の1つ明石(船上城)を紹介したいと思います。

特に関係ない明石海峡大橋

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池田輝政は明石(船上城)には九男池田利政を配しました。
池田利政は九男と書きましたが実は四男です。
どういうことかというと池田輝政は督姫と再婚する前に前妻糸姫との間に長男利隆、側室との間に次男政虎、三男輝高、四男利政がいました。そして督姫と再婚して五人の男子忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興が生まれました。その子達が繰り上げで次男、三男、四男、五男、六男となったので側室の子の政虎、輝高、利政は七男、八男、九男となりました。
ようわからんけど戦国時代にはそういう事があるようです。難しいですね。


そんな利政さんが入った船上城

私有地で近づく事すらできない
木が生えてる所が船上城らしいです。畑越しに頑張って撮りました。訪れたのが7年前とかなので今はどうなっているかわかりません

昔はこんな感じになっていたみたい

案内板全体図


案内板によると船上城は高山右近が築城したともそれ以前に別所吉親が拠っていた林ノ城を整備、拡充したとも言われているそうです。


そして明石藩略史という本によると慶長17年(1612)頃には池田家の家老で池田輝政の甥池田出羽守由之が明石を治めていたようです。
池田由之は長久手合戦で討死した輝政の兄元助の子で本来ならば池田家を継いでいた人です。


池田由之は明石川の右岸に二重に堤防を築き松並木を植えたので出羽殿堤と呼ばれました。

これが出羽殿堤っぽい。とりあえず全部歩きました。学校とかあって学生が部活してました。
城と城下町船上を明石川の氾濫から守ろうとするものだったらしいです。

また明石川河口に水門を築き船上の海中に長い波止を築いたそうです。現在は古波止と呼ばれているそうな

これ・・・でしょうか?とりあえず撮ってきました。わからんけど。

古城川って書いてある。



その後慶長20年(1615)に幕府の「一国一城令」により船上城は支城としての機能を失いました。
元和3年(1617)に池田家は鳥取に移封、代わって小笠原忠真が船上城に入城して明石藩が立藩されました。
小笠原忠真一代覚書」によると忠真が船上城に入った時船上城は一国一城令によって破却され屋敷構えとなっていてあさましかったので誰も落ち付きかねたとか。同じ姫路城の支城だった三木城は余計に城を撤去したから船上城よりもっとあさましい姿だったそうです。
そして元和5年(1619)に明石城が築城されたため船上城は廃城となりました。

明石城

いい写真がなくてマジ申し訳ないんですが明石城はかなり立派なお城です。
想像してたより大きいしきれいに整備されていました。なんかイベントしてたし。
巽櫓と坤櫓が重要文化財に指定されていてこの巽櫓・坤櫓は日本に十二基しかない三重櫓だそうです。


明石築城の際には建築部材に船上城の部材を使用したとか。明石城の巽櫓は船上城の天守か櫓を移築したものと伝わるそうです。
だいぶ前に行ったものでどの写真が巽櫓かわからなくなってしまったんですがおそらくこれが巽櫓。

これが坤櫓かな
いやー写真撮ったらメモっとかなきゃダメですね。


ていうことで【姫路城支城シリーズ】明石 出羽殿堤で会いましょう 終了です。
明石焼き美味しかった。



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