せん日記帖

狭く浅い知識を持つせんが戦国武将ゆかりの地へ行ったり絵を描いたり妄想したりするブログです。

揚羽蝶の転落

ここ最近 、池田輝政の4男 池田輝澄関連の場所(福本、鹿野)に訪れているのでちょっと


この記事は主にこちらの本と

池田家三代の遺産―姫路城の“創業者”

池田家三代の遺産―姫路城の“創業者”

播磨 城主たちの事件簿

播磨 城主たちの事件簿

鳥取歴史博物館刊行の「大名 池田家のひろがり」とネットで調べて大まかにまとめたもので 、私が自分で古文書とか読んで調べたものではないのでご了承ください(本当はそうしたいんですけど……)


あと所々上記のような絵が入るので

「お前の下手な絵とかいらんわ!」

って人は読まないでね!




池田輝澄は1604年、池田輝政徳川家康の次女督姫の間に4男として誕生しました


1615年に12歳で宍粟山崎藩3万8千石を賜り従五位下 石見守に任官します


1631年に輝政の5男の政綱が死去し政綱の領地赤穂は輝政6男の輝興が相続、輝興の領地佐用は輝澄に加増され輝澄は6万3千石(wikiでは6万8千石だったんですがどっちがあってるかわからんのでどっちも書いときます)を治める事になります


輝澄は徳川家光と同年生まれの従兄弟で非常に近い間柄で歴代将軍からの覚えもめでたかったそうです


そして家光の弟、忠長の不行跡で空いた駿府に輝澄を入れる事が決まり輝澄は江戸に行く事になります
輝澄はご機嫌で駕籠のあとに続く弓を10張特別にあつらえました


順風満帆のように見える池田輝澄

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しかし喜んでいられるのもここまでだった!!



江戸に行く道中で上記の弓を海に落としてしまいました(海に落としたってどういうことなん……)


それを気に病んだのか病気になってしまいます(ノイローゼのようなものらしいです)

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そのままでは城勤めもできず在所の山崎に帰るわけにもいかずずっと江戸詰めに………


その間に在所の山崎藩で 池田騒動 という大事件が勃発します
山崎藩に佐用藩が付け足された藩なので新旧の家老クラスの軋轢が大きくなり輝澄の押さえがきかなくなり元々山崎藩を立てた時の家老が100人くらい連れて集団脱藩してしまったのです


輝澄は家中不取締で改易


しかも同じ日に妻の実家生駒壱岐守高俊家も改易されました

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(輝澄のせいではなく生駒家でも同時期にお家騒動が起きてたみたいです)


輝澄は鳥取藩のお預りとなり鳥取の鹿野に蟄居します
1万石の堪忍料を播磨に与えられましたがこれは鳥取藩が飛び地として支配し、輝澄家中には鳥取藩領内に1万石の知行を設定し蔵米を給与しました


そして18年の時が流れ1658年ようやく息子の政直が罪を許され江戸に召し出されます


その4年後1662年に輝澄は鹿野で59年の生涯を終えました


その死の5ヶ月後政直が幕府から与えられた堪忍料1万石を相続し、1663年正式に播州福本に陣屋を定めて大名になります
こうして福本藩は成立しました
http://romance705.hatenablog.com/entry/2014/04/17/001308



池田輝政と督姫の子供は徳川家康の孫だからさぞ華やかな人生をおくったかと思いきやめっちゃ転落人生送ってました
ちなみに6男の輝興も発狂して自分の妻とか切り殺して改易されてます
……いったい何があったんだよ(妻は黒田長政の娘でした。この辺調べて紹介したい)


あと池田輝政あんまり関係なかったけど輝政関係ってことで「池田輝政」のカテゴリに入れときまーす


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